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異なるフットボール文化を知っているなかで感じた、それぞれの「普通」

これは、自転車で通りかかった公園のいち風景から「あっ」と感じたので書き留めます。

公園はきれいな人工芝で、開放時間は自由にボールが蹴ることができる何とも素敵な場所。その日は天候も穏やかで、たくさんの人が「マイボール」で黙々とトレーニングをしていた。

公園を通り過ぎてからふと、「ん」っと思った。

「結構人(12、3名)がいるのに、みんな一人でボール蹴ってる……。なんでゲームしないんだろう」

きっと、他人同士だからっていうのが一番の理由だろうけど、それでも何かこう「もったいないな」という感情が湧いた。フットボールは楽しむのも、うまくなるのもやっぱりゲーム(プレー)が一番。自主練は誰もいない時にやればいい、というのが「今」の自分が持っている「普通」だからだ。

そんな自分も、海外に行く前はもっぱら「自主練」が好きだった。フットボールがうまくなるには自主練をしまくれば、ヘタなりにうまくなると思っていたからだ。きっと、当時の自分がその公園にいたら、周りの皆と同じく一人でボールを蹴っていただろう。そして、それが「普通」のこととして、何も疑問を持たずに過ごしていくと思う。

一人でボールを蹴ることでボールフィーリングはうまくなるけど、試合で生きるプレーは身につかない。それは南米に行った時に肌で感じたし、「なんでもっと気づかなかったんだろう!」と痛く後悔したことでもある。

日本で指導をする外国人コーチが「日本人はテクニックはあるね」と言っているのは、褒めているようで褒めていない「純粋な事実」を言っているに過ぎないんじゃないかと受け止めてしまう自分がいる。

なので、オフィシャルな環境でなくてよいので、もっとプレーをしてほしいなと老婆心ながら思ってしまう。「大人数でいる時は試合をしよう」なんて標語を押し付けるつもりはないけど、人がたくさんいてボールがあったら自然に試合になる風景が、フットボールの普通だと信じているから。